敵を知れ
「あなたがたの敵である悪魔」
ペテロの第一の手紙 5:8
私はたちは人生の営みのあらゆる分野で敵を知っていなければいけない。
健康ということ一つ例にとってみても、私たちの健康をおびやかすものがいろいろある。
そのような病気の原因となるものはよく調べられ、対応策が練られる。
スポーツの世界では、相手に打ち勝つために研究にいそしんだりする。
また、不幸なことであるが、戦争ともなると、互いに敵を倒すために戦略面のすべての
ことを調べあげる。
しかし、こと魂のこととなると、平均的キリスト者は魂の敵に対する用意、研究を
殆どしていない。
聖書には私たちの魂の敵について、三つの事実が述べられている。
まず第一に、私たちの魂の敵の目的はそしることである。
「私たちの兄弟たちの告発者」(黙示12:10)と聖書は呼んでいる。
私たちに直接向けられてくる攻撃は良心を責めたり、自らの無価値で押しつぶされるように
したり、落胆し、ふさぎこんで主の働きをやめるようにしたり、
救いの確信を失わせ、神に受け入れられていることを疑ったりもさせる。
また、間接的にやってくる攻撃もあり、他のキリスト者が言ったことだとか
この世の自分の失敗に対する非難だとか、といったかたちをとることもある。
私たちの魂の敵がしかけてくるこのような手段にさらされたことのない信仰者は
ほとんどいないのではなかろうか。
そこで、私たちは気を落として、敗北を認めさえしかねないわけである。
この告発者に対する答えはあるのであろうか。
昔から存在し、しかも完全な答えがある。
私たちは、「小羊の血によって」
告発者に打ち勝つのである。
思うに、キリスト者が、自らの義によって神のみ前に受け入れられるということは
いつの時代にもない。
私たちは恵みによって救われたのであり、その恵みの中に立ち続けるのである。
この恵みのグランドから離れることは、自分を告発者の攻撃にみすみすさらすことになる。
反対に、恵みのグランドに留まるなら告発者はそこに入ってくることはできない。
実に、この告発者の卑劣きわまる攻撃への唯一の答えは、
「すべてのしみや罪からきよめる小羊の血」である。
第二に、私たちの魂の敵の計画はだますことである。
「全世界を惑わす」(黙示12:9)者と敵はされている。
また、初めからの偽り者である、と聖書は言っている(ヨハネ8:44)。
したがって、その近づき方は巧妙そのものであり、
いかにも人の幸福を願っているようなことばを使い、
良いものづくめの約束をしてくる。
しかし、偽りというしるしがついてくる!
それはまさに、エデンの園で人類の始祖に近づいた手口であった。
「園のどんな木からも食べてはならない、と神はほんとうに言われたのですか」
「あなたがたは決して死にません」(創世記3:1,4)とうそで惑わしている。
戦争で一番さきに犠牲とされるのは真実であるといわれているが、
霊的戦いにおいてはまさにその通りである。
偽りに対する答えはただ一つあるのみで、
それは真実である。
しかも、その真実を私たちは神のみことばの中に持っている。
そこには、罪について、幸福について、自分自身についての真実が
述べられている。
それが、私たちの勝利となり、偽り者の敗北となる。
したがって、私たちが敵にだまされないためにも、神のみことばに
深くつかっている必要がある。
第三に、敵には破壊する力がある。
「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを
捜し求めながら、歩き回っています」(Ⅰペテロ5:8)とあるように
敵の力を決して軽く見てはいけない。
このような敵に自分は立ち向かうことができるだなどと思うのは、
愚の骨頂である。
私たちはだれ一人として、ライオンに武器を持たず、単独でかかっていくような
ことはしない。
神に感謝すべきことには、
私たちは悪魔に独りでかかっていかなくてもよいのである。
ということは、私たちの勝利の源とは一体、何?
いや、誰なのかということになる。
ある回心した年老いた黒人が、主人に、人間が悪魔に勝だなんてあり得ないと嘲笑
されたが、「私たちには悪魔に勝てる主がいるんです」と答えたという。
内住の主の復活のいのちの力にあって、
悪魔すらも頭を下げなければならないお方を、私たちは持っているのである。
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