キリスト者よ。語れ!
「主に贖われた者はこのように言え」 詩篇107:2
この聖句を現代流に表現すると、
「キリスト者よ。語れ!」ということになると思う。
あなたの信仰は、どの程度広く証しされているだろうか。
福音的プロテスタント教会をおおっているかにみえる沈黙の陰謀に
あなたも陥ってしまっているのだろうか。
ロイド・ジョージの伝記、「激動の旅」を読んでいたときのことであるが
私は、いわゆる「国教徒の良心」というものに深い印象を受けた。
今日の状況を考えるとき、キリスト者としての良心を考えたりする人が
一体いるのであろうかと思ったりするほどである。
まず第一に、私は
語りでることのむずかしさ ということを考えてみたい。
それは、時には、わざわざ手紙を書いたりしなければならないことも意味する。
英国国営放送に、プログラムのことで感謝したり、あるいは反論したりして
手紙を書いたことがあるであろうか。
それとも、そんなことは億劫であろうか。
たしかに、率先して何かをすることは決して容易なことではない。
そうすることは批判を受けたり、世から憎まれることを覚悟の上でないと
できないことでもある。
私たちは、世から憎まれることを覚悟するように教えられているのに、
大部分の者たちはそれを避けようとしている。
私たちの主を十字架につけたこの世に受け入れられたいというのが
私たちの願望なのだろうか?
敢えて、はっきりと物を言うことは、自分を孤立させてしまうことになる
ときもある。
孤立を好む者はいない。
従って、そうすることは勇気を必要とする。
私たちは、大体において、自分が認める以上の大きな臆病者たちである。
『語り出ることは、自分が正しいと思うことに真実であることを要求する。』
問題は、キリスト者のほとんどが
都合の悪いこととなると、真実や正しさを妥協してしまうことである!
たしかに、真実な証人となることはたやすいことではない。
しかし、証人は語らねばならない。
そのために私たちは、
「わたしの証人となります」(使徒1:8)と、主の召命にあずかっているのである。
そこで、
語り出ることは義務 となる。
さて、この世が娯楽やっ文学の分野で何か作品を出して、これを優秀な作品と
賞賛したとする。
しかし、キリスト者の標準から見た場合、「退廃的」であるとき、
キリスト者は沈黙を守っていてよいであろうか。
現代の悲劇の一つは、
キリスト者たちが考えて、
その考えたことを、はっきりと言うことを拒絶していることである。
この世に対して、私たちがしなければならない証しを、
私たちが語り出ることが要求されている。
だからといって、礼を失するような、思慮分別に欠けたやり方で語っては
ならない。
私たちは、この世に機会を与えねばならない。
ゆえに、私たちは語り出なければならないのである!
私たちが語らねば、どうしてこの世はキリスト者の証しを聞くことができるで
あろう。
新約聖書には、「宣べ伝える人がいなくて、どうして聞くことが
できるでしょう」(ローマ10:14)と叫び声をあげている。
したがって、説教者は語らねばならない。
あなたは、そのような意味で、最近説教したことがあるであろうか?
最後に、語り出るための原動力 について考えてみよう。
一体、どこからその力が来るか、ということである。
すべてのキリスト者の働きについて言えることが、ここでも言えるわけで、
それは神よりいただくものである。
かしこい思考、雄弁なアッピール、説得力のある理論、
実例の展開だけでは、人が罪を悔い改めるのには不十分である。
人を真に悔い改めに導くのは聖霊のみである。
従って、教会の働きや証しがすべて常にそうであるように、
私たちはここでも、私たちとキリストご自身との関係に戻らなければならない。
さて、語るための力は、誰を通して与えられるのであろうか?
思うに、
神のために偉大なる働きをしている人は、神との正しい関係で生きている人である。
あの有名なモントゴメリー将軍の回顧録を読むと、
彼の数多くの輝かしい勝利の秘訣の一つは、勝利のための条件がそろったと自分が
確信するまでは、決して戦わなかったということに気づくはずである。
同じように、私たちも聖霊の力を受けていることを確信するまで待つべきである。
そして、
へりくだって神との正しい関係の中にあって、聖霊の力を求めて、
頂いたなら、
キリストのために、また世のために
キリスト者たるものは、
語り出るべきである。
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