信仰は全てを可能にするが、愛は全てを容易にする

 

キリストの愛が私たちに強く迫っているのです。

    コリントの人々への第二の手紙 5:14


 愛の起因


 愛についてひとつはっきりしていることは、

それが人間が作意的に「作り出せる」性質のものではないということである。

これは新約聖書も認めている事実であり、

そのことを二つの面から教えている。


 まず、愛は与えられるものである。

「神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)と

使徒パウロは指摘している。

 この愛は、神のいのちとともに与えられるものである。

 ちょうど、永遠のいのちが神からのものであるように、

そのいのちと切り離すことのできない愛も神からのものである。


 まことに、神からの新しいいのちのしるしのひとつは、ヨハネも、

「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。

それは、兄弟を愛しているからです」(Ⅰヨハネ3:14)と言っている

通りのことなので、それは、

兄弟愛であるゆえ、神の家なる教会、

そこに集まる人々への愛であり、

神のみことば、神のみこころに対する愛も基本的に含んでいる。


 次に、愛は成長するものである。

「私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識・・・によって、

いよいよ豊かになりますように」(ピリピ1:9)とパウロは祈っているが、

愛があっても、それが弱いこともありうる。

 愛が成長するということは「知識」を前提条件とする。

 

 人は知らない人のことを愛することはできない。

 この点こそ、実に多くのキリスト者たちが間違っているところである。


 どういうことかというと、

神を知らないのに、愛そうとしているのである。

 神を知るためには、聖書を開き、ひざまずき 

 - 自分の意思もひざまずかせて -

 神とともに過ごす時間を取らねばならない。

 

 私たちも同様であるべきである。



 愛は何になるか


 愛は二つのものになっていく - もちろん、二つ以上あるが

ここでは二つだけをとりあげる。


 愛は私たちの奉仕の動機となる。

 これを冒頭の聖句が示唆している。

 この愛は、その力を労することに疲れることを知らず、

他の人の必要を感知して、深い配慮をもって答える。


 教会は、そのような奉仕にいそしまなければならない。

 ちょうど、それは母親の働きのようなものである。

 なるほど、母親の働きほど大きなものはない。しかも、幸福感を持って

達成されるもので、これ以上のものはない。


 愛はまた、私たちの明け渡しの度合いを示すものとなる。

 そもそも、愛は大きな喜びをもって与えることをする。

 パウロは、

「あなたがた自身を神にささげなさい」(ローマ6:13)とすすめているが、

それは、暴君の脅かしに対する恐れのゆえの明け渡しではなく、

大いなる愛の迫りに対する、喜びの愛の明け渡しである。


「私たちは愛しています。

神がまず私たちを愛してくださったからです」(Ⅰヨハネ4:19)と

ある通りである。



 愛の実践


 新約聖書は、本質的に実践的な本である。

 もちろん、教理を第一にまず述べているわけで、それは当然なことで

あるわけであるが、実践面を教示することも決しておろそかにしていない。


 愛には、その実践の標準がある。

 あの「愛の章」こそ、その標準である -

「愛はきわめて忍耐強く、親切である。

 愛はねたむことを知らず、見せびらかす態度をとらず、

 高慢にならず、

 無礼なことをせず、自分中心でなく、

 いらいらせず、人を恨まず、他の人が間違えることを喜びとせず、

 善を喜び、常に喜びをもって赦し、

 最善を信じることをいつもつとめ、常に希望を持ち、

 常に寛大で、いつでも人の必要にこたえる!」(Ⅰコリント 13:4~7 英文より)


 これ以上の標準が、どこにあるであろう。


 さらに、愛の実践は必ず認められるところとなる。

 「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、

 あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」

(ヨハネ3:35)とあるように、

私たちがキリストものであるということを人にあえて言わなくても、相手に

それが分かるものである。

 それが理由で、その人がすすんで自分から救い主を知りたいと思うように

なることであろう。


 愛をためしてみよ!


      ケズィック52週  ジョージ・B・ダンカン 著

                    ニューライフ出版社 (1988)






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